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映画「聲の形」怪文書

映画「聲の形」は、「けいおん!!」「たまこラブストーリー」に続く山田尚子監督の劇場作品三作目です。
山田尚子監督は生きることについて肯定的で、もっと言えば生きようとすることを強烈に信じている作品を作る、というイメージがあります。
たまこまーけっと」がはじまったころの雑誌インタビューで「不幸は確かにそこにあって、それは覆い隠されている」というようなことを言っていました。少なくとも北白川たまこには、母の死という、物語の主題にもなりうる影があって、しかしそこにフォーカスを当てず、負のイメージを暖かな画面で包み込むように作られていたのは間違いのないことです。
たまこまーけっと」は放送当時賛否両論、万人が評価する作品ではなくて、わたしも「これは大傑作だ」という根拠不明の予感に駆り立てられ、「何かが面白いはずなんだ」という、肯定のバイアスを自分にかけていて、作品のバランス感覚に気付いたという経緯があります。その後、「たまこラブストーリー」が万雷の拍手を持って迎えられたことから、わたしの思い込みではなかったと追認された形になり、ざまあみやがれ、と胸がすく思いをした、というのが正直なところです。
 
映画「聲の形」は、見方であり、見え方、聞き方であり、聞こえ方、そういったものごとの受け取り方の話として観ました。
 
たとえば、この映画をいじめの話、被害者と加害者の話、聴覚障害者の話、そういった切り口で見ることはできるし、当然その要素を無視することはできません。
いじめられた被害者であり聴覚障害を負った西宮硝子という女の子と、いじめた加害者である石田将也という男の子がいて、その二人の間に絆が結ばれる、そのことに異議申し立てがでるのは、自然なことだとも思います。
わたしも、西宮硝子は、いじめられているのに相手を好きになるような、精神構造に瑕疵のある人間だと思います。石田将也の過去の行いを、自罰的な生き方で都合よく贖った、と言われるのも仕方がないと思います。石田が西宮をいじめていた過去を、石田の成長のためにはよかったと元担任が言うシーンが原作にはあって、そういった批判は、原作の時点である程度想定され、エクスキューズを何層にも重ね合わせて作られていることが、彼らが決して正しくないと物語っています。
 
山田尚子の描く世界には常に暖かな温度があって、一種不気味なほどに、幸せにならざるをえない空気を作り出しています。その中で、正しさや、強さや、勝ち負け、そういった価値判断は排除されている。平沢唯は、北白川たまこは、石田将也と西宮硝子は、ただ、気付くんです。彼らは共通して、世界が常に変わり続けていることに気付く。その気付きで、世界が広がって見えたり、輝いて見えたり、そこに在り続けていたものに気がついたりする。気付くことと、そこにある世界の存在そのものを肯定する。それが山田尚子だと思っています。
 
少なくとも、聲の形の世界はアンフェアな世界です。因果応報なんてものは機能していなくて、結果だけがそこにある。川に落ちた石田将也が、かつての友人で、その後自分をいじめた人間であった、というのは事の成り行きに過ぎません。作品の中で、奇跡がなかったとは言いません(川の鯉は、超越的な存在だと思います)。しかし、それは血で贖ったわけではないはずです。その理屈が正しければ、石田将也が/西宮硝子が落ちることは、肯定されなければなりません。それは、石田自身が明確に否定をしたことです。
 
だから、残酷な言い方をすれば、彼らの行いは報われたわけではないし、赦されたわけでもない。「生きるのを手伝ってほしい」と西宮硝子に頼んだ石田将也が、世界が自らに報いを与えるものでも、また赦しを与えるものでもないことに気付いただけなんです。それは、逆に言えば、いつだって報われるし、いつだって救われる余地があるということです。
山田尚子は強烈な意志をこめて、世界を慈しんでいる。善悪を度外視して、ありのままを受け止めて描いたものが無謬であるとは思いません。ただ、そういった監督の姿勢を、わたしは(今のところ)、好意的に受け止められています。そうできるぐらい、真摯に作られた作品であるからです。