映画観た2016

映画は年一ぐらいでしか観ないんだけど今年はどういうわけか自分史上キャリアハイの観賞本数だったので途中からまとめていた。

【4月まで】
俳優・亀岡拓次(劇場)
→アル中の白昼夢みたいな映画だった。亀岡が「オムツを履いてきた」って言っているけど正確にはリハビリパンツだと思います。

劇場版 探偵オペラ ミルキィホームズ 逆襲のミルキィホームズ(劇場)
→七転八倒です! こころちゃんが一番かわいいんだね

ガールズ&パンツァー 劇場版(劇場)
→逸見エリカちゃんって脇役だし出番少ないなのになんであんなに人気出たの……?

オデッセイ(劇場)
→ワトニーがひたすら頑張ってしのいで最後の最後で迎えに来るのかと思ったら割とガッツリ地球側も描かれてた。

フォックスキャッチャー(DVD)
→これがBLちゃんですか……

レオン(DVD)
ロリコン映画だし俺はロリコンになった

野獣死すべし(DVD・途中で投げた)
バイオレンスな展開になる前にレンタル期限が来ちゃって観るのやめちゃった

家族ゲーム(BSで中途半端に見た)
→野獣死すべしを観ようと思った原因、多分こっちの方が面白いと思う

【5月】
劇場版 響け!ユーフォニアム~北宇治高校吹奏楽部へようこそ~(劇場)
→総集編。耳が悪いので音響がどうとかは全然分からない

【6月】
好きにならずにいられない(劇場)
→俗っぽい言い方をすると北欧版「電車男」かと思ったら全然違う映画だった……北欧、それはさびしい……

帰ってきたヒトラー(劇場)
→極論を言えば「バカは死んでも治らない」という話

マイライフ・アズ・ア・ドッグ(DVD)
ロリコン映画だし俺はロリコンになった

【7月】
シン・ゴジラ(劇場)
ゴジラ怖くておしっこちびった

【8月】
君の名は。(劇場)
新海誠の葬式、故人が多くの人から慕われていたことを確認した……

【9月】
見てない

【10月】
聲の形(劇場)
映画「聲の形」は、「けいおん!!」「たまこラブストーリー」に続く山田尚子監督の劇場作品三作目です。

【11月】
見てない

【12月】
この世界の片隅に(劇場)
→8月6日、8月15日を期待させるために日数表示がされた、ということは率直に受け止めようと思います。


やっぱりシン・ゴジラ君の名は。 → 聲の形 → この世界の片隅に のオタク映画リレーは凄まじくて、2016年すげーってなる。
個人的な感性の中でのつまらない映画が一本もなかったのはよかったなと思ったです。
来年はもっと映画を観たいです。

2016年買ってよかったもの

1.紙コップ

 

無限にお茶・コーヒー・紅茶を飲むのだけれど、紙コップがあれば洗い物の手間なく燃えるゴミに出すだけで済む。わかめスープなどにも使える。おすすめ。

 

2.ウィルキンソン炭酸水レモン

アサヒ ウィルキンソン タンサン レモン 500ml×24本
 

 

これをケースで買って常備するようになってからビールの量が明らかに減った。しょせん炭酸水なので飽きるも何もないのが強み。ビールの常習性のひとつにのどごしがあるけれど、炭酸水の刺激は十分代用になる。少なくともノンアルコールビールよりマシ(龍馬1865はビール飲みたくなるので失敗だった)

 

3.パナソニック フェイスシェーバー フェリエ ※12月27日追加

 

ADHDなので衝動買いで買った。

わたしはニキビ跡がひどくて理容師がその部分の顔剃りを避けるぐらいボコボコになっている。自分で剃刀を当ててもでこぼこ部分の産毛が剃れなくて(しかも剃刀負けする)ストレスがたまっていたのだけれど、これはノーダメージで産毛が目に見えて剃れてとてもよかった。普通のひとには贅沢品かもしれないがわたしはこれがほしかったんだ!という感じ。衝動買いもたまには役に立つ。

 

映画「聲の形」怪文書

映画「聲の形」は、「けいおん!!」「たまこラブストーリー」に続く山田尚子監督の劇場作品三作目です。
山田尚子監督は生きることについて肯定的で、もっと言えば生きようとすることを強烈に信じている作品を作る、というイメージがあります。
たまこまーけっと」がはじまったころの雑誌インタビューで「不幸は確かにそこにあって、それは覆い隠されている」というようなことを言っていました。少なくとも北白川たまこには、母の死という、物語の主題にもなりうる影があって、しかしそこにフォーカスを当てず、負のイメージを暖かな画面で包み込むように作られていたのは間違いのないことです。
たまこまーけっと」は放送当時賛否両論、万人が評価する作品ではなくて、わたしも「これは大傑作だ」という根拠不明の予感に駆り立てられ、「何かが面白いはずなんだ」という、肯定のバイアスを自分にかけていて、作品のバランス感覚に気付いたという経緯があります。その後、「たまこラブストーリー」が万雷の拍手を持って迎えられたことから、わたしの思い込みではなかったと追認された形になり、ざまあみやがれ、と胸がすく思いをした、というのが正直なところです。
 
映画「聲の形」は、見方であり、見え方、聞き方であり、聞こえ方、そういったものごとの受け取り方の話として観ました。
 
たとえば、この映画をいじめの話、被害者と加害者の話、聴覚障害者の話、そういった切り口で見ることはできるし、当然その要素を無視することはできません。
いじめられた被害者であり聴覚障害を負った西宮硝子という女の子と、いじめた加害者である石田将也という男の子がいて、その二人の間に絆が結ばれる、そのことに異議申し立てがでるのは、自然なことだとも思います。
わたしも、西宮硝子は、いじめられているのに相手を好きになるような、精神構造に瑕疵のある人間だと思います。石田将也の過去の行いを、自罰的な生き方で都合よく贖った、と言われるのも仕方がないと思います。石田が西宮をいじめていた過去を、石田の成長のためにはよかったと元担任が言うシーンが原作にはあって、そういった批判は、原作の時点である程度想定され、エクスキューズを何層にも重ね合わせて作られていることが、彼らが決して正しくないと物語っています。
 
山田尚子の描く世界には常に暖かな温度があって、一種不気味なほどに、幸せにならざるをえない空気を作り出しています。その中で、正しさや、強さや、勝ち負け、そういった価値判断は排除されている。平沢唯は、北白川たまこは、石田将也と西宮硝子は、ただ、気付くんです。彼らは共通して、世界が常に変わり続けていることに気付く。その気付きで、世界が広がって見えたり、輝いて見えたり、そこに在り続けていたものに気がついたりする。気付くことと、そこにある世界の存在そのものを肯定する。それが山田尚子だと思っています。
 
少なくとも、聲の形の世界はアンフェアな世界です。因果応報なんてものは機能していなくて、結果だけがそこにある。川に落ちた石田将也が、かつての友人で、その後自分をいじめた人間であった、というのは事の成り行きに過ぎません。作品の中で、奇跡がなかったとは言いません(川の鯉は、超越的な存在だと思います)。しかし、それは血で贖ったわけではないはずです。その理屈が正しければ、石田将也が/西宮硝子が落ちることは、肯定されなければなりません。それは、石田自身が明確に否定をしたことです。
 
だから、残酷な言い方をすれば、彼らの行いは報われたわけではないし、赦されたわけでもない。「生きるのを手伝ってほしい」と西宮硝子に頼んだ石田将也が、世界が自らに報いを与えるものでも、また赦しを与えるものでもないことに気付いただけなんです。それは、逆に言えば、いつだって報われるし、いつだって救われる余地があるということです。
山田尚子は強烈な意志をこめて、世界を慈しんでいる。善悪を度外視して、ありのままを受け止めて描いたものが無謬であるとは思いません。ただ、そういった監督の姿勢を、わたしは(今のところ)、好意的に受け止められています。そうできるぐらい、真摯に作られた作品であるからです。

「現実 対 虚構」という虚構 シン・ゴジラ感想

映画の映像の話しとか演出とかそういったことは詳しいひとに聞いて下さい

 

"現実(ニッポン)対 虚構(ゴジラ)"と銘打たれたシン・ゴジラ、蓋を開けてみれば一種のシミュレーション映画、現実的な諸要素に即して制作された映画だった。
「劇中でファンタジーなのはゴジラだけ」とのことだが、そのゴジラも、「巨大不明生物」という官僚的表現のつけられた、映画内においては極めて現実的な有害鳥獣だった。
では、「現実対虚構」とは、ファンタジーの怪獣を現代日本の技術と知能で倒す、というだけのものなのか? そんなわけないだろう。何故か? そんな映画は撮ってもしょうもないという理由で説明がつく。

 わたしは「現実 vs 虚構」は「ケ vs ハレ」と(極めて個人的かつ恣意的に)読み替えたくて、そうするとどうなるかと言えば、ハレとケは対立概念ではないので、現実と虚構の対立もまた、成立しえないのではないかという疑問が浮かぶのだ。そもそも現実 対 虚構って勝利条件はなんなんだ。虚構が現実を破るとはどういうことか? 9.11とか3.11とかそういうことなのか? 逆に現実が虚構に勝つとは?

 終盤、ゴジラ退治の作戦は「ヤシオリ作戦」と命名される。わたしはそんなもん知らなかったのだけれど、「アメノハバキリ」などのタームが出てくるので、ああ、ヤマタノオロチになぞらえているのだなと分かる。エヴァンゲリオンにおける長距離狙撃作戦が「ヤシマ作戦」と屋島の戦い那須与一の故事にちなんだ名前をつけられたように、古典からの引用で、庵野監督らしさがある。
 だが、「ヤシオリ作戦」という名前は、ゴジラヤマタノオロチと同一視、そうでなくともそういった神話上の怪物に準ずるものと、(少なくとも命名者の矢口は)捉えていたということを示唆している。
 この映画の日本はどこまでも現実でなければならない。とするならば、ゴジラヤマタノオロチではなく、また、ゴジラは人類の活動によって生じた偶然の産物であると明言されているし、神であってはならない。神は神話上のキャラクターである。現実に、神はいてはいけないはずなのだ。だからこそ、ゴジラを「完全生物」と表現したのではないか。常識を超えた生物、死をも超越したかも知れない生物、しかし確かに現実に生きている物質としての存在であると確認するために。あるいは、あらゆる生物は、人間は、どこまでいっても神になりえないと言うために。
 シン・ゴジラ終盤の矢口の演説はいやらしいほどに熱を帯びている。彼にもともと官僚らしからぬ情熱を秘めたキャラクターであることを差し置いても、あの演説は、指揮者として感情を抑制し、演出に務めなければならないはずだ。しかし、矢口はあれを半ば本心から語ってしまい、その言葉は熱を帯び、熱に浮かされたように「鳥獣駆除」は「神殺し」にすり替わっていく。
 たとえばそれが、現実が虚構に敗北するということではないのか?

shiba710.hateblo.jp

シン・ゴジラ』の後半においての「ニッポン」は、「現実」ではなく「虚構」をなぞらえている。そう僕は考える。

つまり『シン・ゴジラ』の「現実 対 虚構」は二重の構造を持っている。前半では、現実(=日本)が虚構(=ゴジラ)に蹂躙されるさまを。そして後半では、圧倒的な現実(=ゴジラ)に立ち向かう虚構の希望(=日本)を描いている。

 


 こういう見方があって、なるほどな、と思ったけれど、正直なところ、「現実が虚構に勝つ」という内容を虚構で描くか? という素朴な疑問から、これを手放しで受け入れることはできない。
 圧倒的な現実(ゴジラ)を虚構の希望(リアルSF的作戦)で退治する、のではなくて、圧倒的な現実を目の前に人はそこに神のごとき虚構を見出してしまい、国家規模の鳥獣駆除であるはずの行為に日本神話になぞらえた作戦名をつけ、人々が現実を見ているつもりが虚構に飲み込まれていくこと、「現実が虚構に負ける」ということなのではないか?

 この映画を批判的、あるいは批評的に観る人の少なくない意見として、「この映画は日本ではなく東京を舞台にした映画だ」「なぜ舞台は東京であったのか?」「東京の終わりは日本の終わりか?」と言った、「東京≠日本」というものがある。
 ゴジラは東京を襲うものだから、と切って捨てるのは簡単だ。画面として東京がうってつけというのもある。だがわたしはこう言わずにはいられない。「ゴジラが東京を焼く画を見たくなかったか?」と。
 怪獣は都市を破壊する、それは我々の想像が求め導き出す願望のビジョンだ。鳥取のマジでなんもない野原みたいなところをゴジラが闊歩していてもマニアにしか受けない。東京という虚構の象徴のような街を特撮という本来ミニチュアやハリボテで虚構として再現していたフォーマットにおいて、虚構の怪獣に破壊させる。怪獣映画の快楽の基本点ではないのか?
 どれだけ現実に即したシミュレーションであるにしても、これはドキュメンタリーではない。フィクションであり、エンターテイメントである。娯楽映画であるからこそ、舞台は東京でなければならない。また、国家規模の災害対策は、まず第一に首都東京を想定したものを策定する。フィクションであり、シミュレーションであり、願望であるからこそ、東京が選ばれたのだ。この映画が、どこまでも虚構であることを象徴するために。
 何故この映画で地方が描かれなかったのか? 描いてしまえば、ゴジラ「の」かけた虚構の魔法が綻びてしまうからだ。これがクソリアリティ映画なら、東京の惨状に注目し、しかしどこか他人事のように、遠くで聞こえる祭りの音のように感じる地方の人々を描いたっていい。しかしそれが省かれたのは、我々がゴジラの正体がなんなのか、思い出せないようにするためだ。
 人々は(観客は)、東京という1300万人の生活する過密の街を焼き払うゴジラに神を見出す。考えてもみろ、その破壊が、中央線で一時間の立川にさえ届いていないのだ。神の破壊にしては、どうしたって小さい。我々は破壊されていない日本に視線を向けさせないよう映画によってコントロールされている。


 ゴジラを神と捉えてしまうのは、しかし自然なことで、人々は災害や異常な現象の裏に神やそれに準ずるものを見出してきたのであって、だからこそ現代においても我々はしばし祈ることしかできない。科学的に、実際的に、それは気休めでしかないのにだ。
 翻っていえば、人々は常に現実を生きているつもりでも大なり小なり虚構という狂気にふれて生きているとも考えられるし、それを「想像力」として現実に活かしていると言える。
 ゴジラが東京を蹂躙するシーンに恐怖や「もうやめてくれ」と感じた鑑賞者が散見されて、俺も恐ろしさを感じたんだけど、それは虚構の見せる恐怖で現実のものではない。我々の想像力の作り出したものだ。それも、一種虚構の勝利みたいなところがあるんじゃないかとも思う。
 「アメリカの核攻撃でゴジラ撃滅」をよしとする官房長官代理の赤坂より矢口のヤシオリ作戦を観客(の多数が)支持するのも、「日本の力を結集して核攻撃以外の方法でゴジラを倒す」という奇跡のような筋書きに、「核攻撃で東京と引き換えにゴジラを確実にしとめ、ゴジラと三度目の核というお涙頂戴で援助だ復興だ」という極めて現実的な発想が敗北したと言える。「東京を捨てるわけにはいかない」というプライドと人情で、低くないリスクを背負い高いコストを支払うことを人々が(そして観客が)望むというのは、等しく虚構に飲み込まれていた瞬間ではないだろうか? そして、ここまで言うと身も蓋もない気がするけれど、観客の「日本もまだまだ捨てたモンじゃない」という感想自体が壮大なフィクションに浸ってるんだよなとか、これはちょっと冷笑的すぎるか。


 矢口が最後に「この国のためにはまだやめるわけにはいかない」と、ゴジラのことではなく官僚あるいは政治家としての自分の職務に目を向けているのは、危ういところで虚構から現実に回帰したから、正気を取り戻したからなのではないか。そこで、人の業だとか神の賽の目だとか、そういったことに触れてしまうと、映画内の現実としてのゴジラを見誤ってしまう。


 現実が虚構に敗れること、虚構によって現実が方向付けられること、これを肯定的に捉えるのか否定的に捉えるのか、そこからは観客に委ねられるのだろう。シン・ゴジラは「虚構には力がある」と提示している。個人的には、力が暴力に変貌するのはそう珍しいことではない、と思う。日本はお祭りが好きだし、イベントが好きだし、ハレの舞台というのが好きだ。ケという日常とハレという非日常を絶え間なく行き来して我々は生きている。ハレの場で普段と違う顔を見せる人を、何度だって見てきたはずだ。

ひとりぼっち惑星のゲームデザイン

 スマートフォンアプリの「ひとりぼっち惑星」をはじめた。

 

 ゲームの核心である「じゅしん」「そうしん」をはじめるまでに数時間ないし120円かかるのは、ある不特定多数の集団が大挙して押し寄せサービスを機能不全に陥れることを阻む緩衝材としての機能がある。
 ネスカフェ大沢たかおさんの朗読サービスに「うんこぶりぶりんちょ」等と怪文を読ませて遊ぶ手合いというのが確かに存在する。

 ほんの少しのハードルを設定することで、面白半分で場を荒らすことをいくらかは減らすことができる。

 数時間ちまちまと部品を集めるか、最初にジュース一本分のお金を払うだけで、怪文を送ることはできる。そういう面倒なひとは、ひょっとすると拒まれていないのかもしれない。


 このゲームはいずれ慣れて、飽きて、忘れられていくのだけれど、ユーザーが最後のひとりになったとき、ひとりぼっち惑星の世界観と現実でのありようが重なり合う。
 いなくなってしまった人たちの、残された電波を受信するだけの世界になる。届かない電波を、虚空に祈るように送る世界になる。このゲームは、最初から、終わることを前提に作られている。

 よく練られたゲームデザインであると思いました。

 

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