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「現実 対 虚構」という虚構 シン・ゴジラ感想

映画の映像の話しとか演出とかそういったことは詳しいひとに聞いて下さい

 

"現実(ニッポン)対 虚構(ゴジラ)"と銘打たれたシン・ゴジラ、蓋を開けてみれば一種のシミュレーション映画、現実的な諸要素に即して制作された映画だった。
「劇中でファンタジーなのはゴジラだけ」とのことだが、そのゴジラも、「巨大不明生物」という官僚的表現のつけられた、映画内においては極めて現実的な有害鳥獣だった。
では、「現実対虚構」とは、ファンタジーの怪獣を現代日本の技術と知能で倒す、というだけのものなのか? そんなわけないだろう。何故か? そんな映画は撮ってもしょうもないという理由で説明がつく。

 わたしは「現実 vs 虚構」は「ケ vs ハレ」と(極めて個人的かつ恣意的に)読み替えたくて、そうするとどうなるかと言えば、ハレとケは対立概念ではないので、現実と虚構の対立もまた、成立しえないのではないかという疑問が浮かぶのだ。そもそも現実 対 虚構って勝利条件はなんなんだ。虚構が現実を破るとはどういうことか? 9.11とか3.11とかそういうことなのか? 逆に現実が虚構に勝つとは?

 終盤、ゴジラ退治の作戦は「ヤシオリ作戦」と命名される。わたしはそんなもん知らなかったのだけれど、「アメノハバキリ」などのタームが出てくるので、ああ、ヤマタノオロチになぞらえているのだなと分かる。エヴァンゲリオンにおける長距離狙撃作戦が「ヤシマ作戦」と屋島の戦い那須与一の故事にちなんだ名前をつけられたように、古典からの引用で、庵野監督らしさがある。
 だが、「ヤシオリ作戦」という名前は、ゴジラヤマタノオロチと同一視、そうでなくともそういった神話上の怪物に準ずるものと、(少なくとも命名者の矢口は)捉えていたということを示唆している。
 この映画の日本はどこまでも現実でなければならない。とするならば、ゴジラヤマタノオロチではなく、また、ゴジラは人類の活動によって生じた偶然の産物であると明言されているし、神であってはならない。神は神話上のキャラクターである。現実に、神はいてはいけないはずなのだ。だからこそ、ゴジラを「完全生物」と表現したのではないか。常識を超えた生物、死をも超越したかも知れない生物、しかし確かに現実に生きている物質としての存在であると確認するために。あるいは、あらゆる生物は、人間は、どこまでいっても神になりえないと言うために。
 シン・ゴジラ終盤の矢口の演説はいやらしいほどに熱を帯びている。彼にもともと官僚らしからぬ情熱を秘めたキャラクターであることを差し置いても、あの演説は、指揮者として感情を抑制し、演出に務めなければならないはずだ。しかし、矢口はあれを半ば本心から語ってしまい、その言葉は熱を帯び、熱に浮かされたように「鳥獣駆除」は「神殺し」にすり替わっていく。
 たとえばそれが、現実が虚構に敗北するということではないのか?

shiba710.hateblo.jp

シン・ゴジラ』の後半においての「ニッポン」は、「現実」ではなく「虚構」をなぞらえている。そう僕は考える。

つまり『シン・ゴジラ』の「現実 対 虚構」は二重の構造を持っている。前半では、現実(=日本)が虚構(=ゴジラ)に蹂躙されるさまを。そして後半では、圧倒的な現実(=ゴジラ)に立ち向かう虚構の希望(=日本)を描いている。

 


 こういう見方があって、なるほどな、と思ったけれど、正直なところ、「現実が虚構に勝つ」という内容を虚構で描くか? という素朴な疑問から、これを手放しで受け入れることはできない。
 圧倒的な現実(ゴジラ)を虚構の希望(リアルSF的作戦)で退治する、のではなくて、圧倒的な現実を目の前に人はそこに神のごとき虚構を見出してしまい、国家規模の鳥獣駆除であるはずの行為に日本神話になぞらえた作戦名をつけ、人々が現実を見ているつもりが虚構に飲み込まれていくこと、「現実が虚構に負ける」ということなのではないか?

 この映画を批判的、あるいは批評的に観る人の少なくない意見として、「この映画は日本ではなく東京を舞台にした映画だ」「なぜ舞台は東京であったのか?」「東京の終わりは日本の終わりか?」と言った、「東京≠日本」というものがある。
 ゴジラは東京を襲うものだから、と切って捨てるのは簡単だ。画面として東京がうってつけというのもある。だがわたしはこう言わずにはいられない。「ゴジラが東京を焼く画を見たくなかったか?」と。
 怪獣は都市を破壊する、それは我々の想像が求め導き出す願望のビジョンだ。鳥取のマジでなんもない野原みたいなところをゴジラが闊歩していてもマニアにしか受けない。東京という虚構の象徴のような街を特撮という本来ミニチュアやハリボテで虚構として再現していたフォーマットにおいて、虚構の怪獣に破壊させる。怪獣映画の快楽の基本点ではないのか?
 どれだけ現実に即したシミュレーションであるにしても、これはドキュメンタリーではない。フィクションであり、エンターテイメントである。娯楽映画であるからこそ、舞台は東京でなければならない。また、国家規模の災害対策は、まず第一に首都東京を想定したものを策定する。フィクションであり、シミュレーションであり、願望であるからこそ、東京が選ばれたのだ。この映画が、どこまでも虚構であることを象徴するために。
 何故この映画で地方が描かれなかったのか? 描いてしまえば、ゴジラ「の」かけた虚構の魔法が綻びてしまうからだ。これがクソリアリティ映画なら、東京の惨状に注目し、しかしどこか他人事のように、遠くで聞こえる祭りの音のように感じる地方の人々を描いたっていい。しかしそれが省かれたのは、我々がゴジラの正体がなんなのか、思い出せないようにするためだ。
 人々は(観客は)、東京という1300万人の生活する過密の街を焼き払うゴジラに神を見出す。考えてもみろ、その破壊が、中央線で一時間の立川にさえ届いていないのだ。神の破壊にしては、どうしたって小さい。我々は破壊されていない日本に視線を向けさせないよう映画によってコントロールされている。


 ゴジラを神と捉えてしまうのは、しかし自然なことで、人々は災害や異常な現象の裏に神やそれに準ずるものを見出してきたのであって、だからこそ現代においても我々はしばし祈ることしかできない。科学的に、実際的に、それは気休めでしかないのにだ。
 翻っていえば、人々は常に現実を生きているつもりでも大なり小なり虚構という狂気にふれて生きているとも考えられるし、それを「想像力」として現実に活かしていると言える。
 ゴジラが東京を蹂躙するシーンに恐怖や「もうやめてくれ」と感じた鑑賞者が散見されて、俺も恐ろしさを感じたんだけど、それは虚構の見せる恐怖で現実のものではない。我々の想像力の作り出したものだ。それも、一種虚構の勝利みたいなところがあるんじゃないかとも思う。
 「アメリカの核攻撃でゴジラ撃滅」をよしとする官房長官代理の赤坂より矢口のヤシオリ作戦を観客(の多数が)支持するのも、「日本の力を結集して核攻撃以外の方法でゴジラを倒す」という奇跡のような筋書きに、「核攻撃で東京と引き換えにゴジラを確実にしとめ、ゴジラと三度目の核というお涙頂戴で援助だ復興だ」という極めて現実的な発想が敗北したと言える。「東京を捨てるわけにはいかない」というプライドと人情で、低くないリスクを背負い高いコストを支払うことを人々が(そして観客が)望むというのは、等しく虚構に飲み込まれていた瞬間ではないだろうか? そして、ここまで言うと身も蓋もない気がするけれど、観客の「日本もまだまだ捨てたモンじゃない」という感想自体が壮大なフィクションに浸ってるんだよなとか、これはちょっと冷笑的すぎるか。


 矢口が最後に「この国のためにはまだやめるわけにはいかない」と、ゴジラのことではなく官僚あるいは政治家としての自分の職務に目を向けているのは、危ういところで虚構から現実に回帰したから、正気を取り戻したからなのではないか。そこで、人の業だとか神の賽の目だとか、そういったことに触れてしまうと、映画内の現実としてのゴジラを見誤ってしまう。


 現実が虚構に敗れること、虚構によって現実が方向付けられること、これを肯定的に捉えるのか否定的に捉えるのか、そこからは観客に委ねられるのだろう。シン・ゴジラは「虚構には力がある」と提示している。個人的には、力が暴力に変貌するのはそう珍しいことではない、と思う。日本はお祭りが好きだし、イベントが好きだし、ハレの舞台というのが好きだ。ケという日常とハレという非日常を絶え間なく行き来して我々は生きている。ハレの場で普段と違う顔を見せる人を、何度だって見てきたはずだ。

ひとりぼっち惑星のゲームデザイン

 スマートフォンアプリの「ひとりぼっち惑星」をはじめた。

 

 ゲームの核心である「じゅしん」「そうしん」をはじめるまでに数時間ないし120円かかるのは、ある不特定多数の集団が大挙して押し寄せサービスを機能不全に陥れることを阻む緩衝材としての機能がある。
 ネスカフェ大沢たかおさんの朗読サービスに「うんこぶりぶりんちょ」等と怪文を読ませて遊ぶ手合いというのが確かに存在する。

 ほんの少しのハードルを設定することで、面白半分で場を荒らすことをいくらかは減らすことができる。

 数時間ちまちまと部品を集めるか、最初にジュース一本分のお金を払うだけで、怪文を送ることはできる。そういう面倒なひとは、ひょっとすると拒まれていないのかもしれない。


 このゲームはいずれ慣れて、飽きて、忘れられていくのだけれど、ユーザーが最後のひとりになったとき、ひとりぼっち惑星の世界観と現実でのありようが重なり合う。
 いなくなってしまった人たちの、残された電波を受信するだけの世界になる。届かない電波を、虚空に祈るように送る世界になる。このゲームは、最初から、終わることを前提に作られている。

 よく練られたゲームデザインであると思いました。

 

play.google.com

国連深海棲艦条約の発効

国連海洋法条約海洋法に関する国際連合条約

第133条 用語
この部の規定の適用上、
a.「資源」とは、自然の状態で深海底の海底又はその下におるすべての固体状、液体状又は気体状の鉱物資源(多金属性の団塊を含む。)をいう。
b.深海底から採取された資源は、「鉱物」という。

第137条 深海底及びその資源の法的地位
1 いずれの国も深海底又はその資源のいかなる部分についても主権又は主権的権利を主張し又は行使してはならず、また、いずれの国又は自然人若しくは法人も深海底又はその資源のいかなる部分も専有してはならない。このような主権若しくは主権的権利の主張若しくは行使又は専有は、認められない。

  全然関係ない文脈で国連海洋法条約の"深海底とそこにあるレアメタルなどの資源は人類の共同遺産"云々の話を見かけたんだけど「艦これの深海棲艦の話かな?」って思っちゃったので艦これ毒が抜けきってない。

 

  1. 「深海底に眠る『資源』たる深海棲艦の研究調査」の名目で深海棲艦を軍事目的に利用せんとするアメリカの策謀(またアメリカか!)
  2. 米軍の核実験で朽ちて沈んだ艦艇がミューテーションした姿が深海棲艦(ゴジラの国の考え方)
  3. 海洋法条約の下、公に深海棲艦を利用できないアメリカが秘密裏に鹵獲した深海棲艦から細胞を採取し少女たちに移植することで生まれた生体マシンが艦娘であり、深海棲艦との戦いは通常戦力によって監視された箱庭実験に過ぎない(細胞の影響で人格や記憶が混濁している(FF7世代)

「条約の言い回しって独特ですね。自然の状態で深海底に『おる』鉱物資源って。普通の感覚なら『ある』でしょう」

「ただそこにあるのではなく、あえてそこにいるのだとすればおかしくはないだろう」

「……どういうことです、それ」

「つまりさ。自らの意思で深海底に留まる固体状の鉱物資源の存在を踏まえれば、そういう言い方にもなるだろうってこと」

 

まだ最終4巻買ってないけど『とっかぶ』の話

 good!アフタヌーンでこないだまで連載していた『とっかぶ』(桑原太矩)というマンガが単行本全四巻で完結したんですが、打ち切りを免れてほしい一心で一年半も本誌のアンケートを送り続けたぐらいに好きだったということをまず書き残しておきたい。twitter日本橋ヨヲコの「漫画家応援するには単行本もだけど雑誌掲載時の反響」みたいなつぶやきを見て「じゃあ買い支えよう」と思ったのがきっかけ。『少女ファイト』は途中で買わなくなっちゃったけど(ストイックさに振り落とされた。断食やってるところまではとても好きだった)。


 何が面白いのか、みたいなことをひとに説明するのは難しいのだけれど、「幸福が描かれているから」以外に思いつく言葉がなかった。
 特別課外活動部っていう一種の懲罰グループみたいなのがあって、主要キャラ三人がそこに所属してるんですけど、ひとりは物好きにも自主的に入部、ひとりはイタズラの度が過ぎて、ひとりは素行不良だけど直接の原因は他人をかばってと、人を傷つけるような人間はいないんですよ。基本的にはトラブルにとっかぶが首をつっこんでドタバタやりつつ収拾つけるという様式なんですが、食い逃げ犯がいれば闇討ちかける奴もいて、でもそいつらも憎むような「悪人」じゃない。ヒロイン(?)のサワはヒーローに憧れてるけど人をイラつかせる「正義」は振りかざさない。なにかにつけてユルいというのが恐らく一つのウリである。


 もっと言えば80年代マンガのリバイバルというか、えーと、単行本二巻に文化部が団結してハンガーストライキをする回があるんですけど、強烈な「あ~る」感というか。講談社のマンガですけど全体的にサンデーチルドレンな感じがする(偏見)。今日び、草野球回で月刊連載二話使うマンガなんてそうそうないですよ。あ、草野球のチーム名が「ピローズ」対「グッドドリームス」で分かりやすく作者はthe pillowsファンです。そのままずばり「空中レジスター」ってタイトルの回も確かあった。


 何がいいのかって多分登場人物の絶妙な距離感で、分かりやすく他人に踏み込まない、なんとなく察してそれとなくフォローする、そういう空気や間の作り方がとても上手いと思う。後、表情芝居の使い方。サワちゃんがうなぎの蒲焼に失敗する回(???)、困り眉で笑って見せているけれど、読んでいて「うわー、すげえ泣きそうな顔だ」って思わせるところとか。基本的に表情がコロコロ変わってみんなかわいいんですよ。たまのシリアスでも基本笑い顔で、でもときたまこちらがドキっとするくらい大人びて見えたりする。これはマンガ的強みです。


 これは言っていいのかどうか分かりかねるけれど、終盤はいわゆる打ち切りが決まったんだろうなあと感じさせる展開で回収されていない演出や伏線もあるんだけど、最後はお祭りで〆、という王道を突き進むのに文句を挟む余地はなし。サワがマンガの最後で戦った相手は突拍子もないようでいて、しかし「ヒーローになったサワの相手」としたらそれしかないよな、などとも思う。ネタバレになるので言いません。


 "ちょっぴりユルいテイストの放課後ディテクティブ・ストーリー"という文句にソワソワするようなら買ってみてはどうでしょうか。『とっかぶ』、とても好きなマンガです。

 

とっかぶ(4)<完> (アフタヌーンKC)

とっかぶ(4)<完> (アフタヌーンKC)

 

 追記:Amazonレビューに「もっと無茶苦茶なドタバタコメディ風にするか~」みたいなこと書いてありますがそれじゃあだいなしだよと強く思った。パンチの軽さがいいのです。ある意味で青春の無駄とか無力さの表れでもあり、しかしそれは無駄なことなんかじゃないという。ナイーヴすぎずお題目でもなく、少年少女の淡いをさ、叙情じゃなくさらっと描いてるのがさ。膝をすりむいたりして痛くても高校生は平気な顔してるし、でもやっぱり痛いし、隣のあいつは「転んだ膝まだ痛いんだろうなー」と思いつつ特段触れずに昼飯買いに行ったりとか(意味不明)(こういうエピソードは本編にはありません)(個人的なおセンチ)。

大学に乗り込んで無理やり「王たちの同人誌」で遊んだ

王たちの同人誌(辺境紳士社交場さん・公式)
 
 大学の文芸サークルでボードゲーム会が開かれるというのでOBのわたしは買ったばかりの王たちの同人誌という非電源ゲームを持ち寄って競技種目にねじ込んだのだった。

 ルールは公式さんが懇切丁寧に書いてくれているので省略するけれど、このゲームの肝はカードイラストのかわいさとフレーバーテキストの愉快さにある。
 いわゆる「同人制作あるある」がカード化されているのだけれど、製作者が作っていて楽しかっただろうな、というのがカード越しに伝わってきて遊んでいると嬉しくなる。

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▲やたら人気だった「なんかヌルヌル」。
 
 基本的にはマンガ・イラストの同人誌ネタがメインなのだけれど、「ジャンル:文芸」なんてカードもあったりしてにやりとする。皆アニオタ属性があるのと文芸だけど同人誌制作経験があるのとで、そこそこ盛り上がったと思う。ゲーム終了時は同人誌即売会が終わったという体なのでみんなで拍手しよう!って説明書に書いてあるのだけれど、説明する前に拍手したし(そもそも開会の時点でやってた。よく訓練されている)。

 

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わたしが学生の頃にこのゲームがあれば最高だったけれど(2014年発売のゲームです)、それは言いっこなし。